昭和50年 2月4日 朝のご理解 入力者【明渡徳子】
御理解第5節「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり」
此の方が祈るところ天地金乃神と一心なり。此の方が祈るところ天地金乃神と一心。その天地金乃神様の、おー、お心にあたくしどもの心が、生き生きとして通う。あたくしどもの一心が、天地金乃神様に通じる。そういうおかげを受けなければならんのです。ただ、あー、拝みさえすれば何様でもよい。それは、あー、おかげが、んー、わが心に神がござるからのおかげであって、一心を出すれば、わが心に神がござるからおかげになるのじゃという信心では、天地に通う、天地に交流するという事にはならない。
これまで神がものを言うて聞かせて下さるところがなかったけれども、金光様のご信心が、えー、頂けるようになって、神様がものを言うて下さるも同様に、御教えを頂く事が出来る、お取次ぎを頂くと、それに対するご返事が頂けれる。だから、そういう例えば、ほんならそれが神のご返事でありましてもです、神のお声お言葉でありましてもです。こちらに生きた心がなかったら、おかげになりません。
生きた心とはどういうような心であろう。昨日、おー、午後の奉仕をさしてもらっております時に、善導寺の原さんが、2度目のお参りをまたされました。今日は、どこどこにやらせて頂きましたら、たまたま十何年も前に熱心におかげを頂いて、ほんとに奇跡的なおかげも受けられて、熱心に信心をしておった方と会った。
それでもう今の合楽でおかげを受けておる話を、もう一生懸命に時間を経つのも忘れて話しました。そしたら、向こうでもです、もうちょいちょい合楽の、あの親先生のお夢を頂く。夕べもこげなお夢を頂いた。だから、もう私もまたちこれよるだろうと思うけれども、原さんもうしばらく待ってくれといったような話をさせて頂いた。
もうここ、帰らせて頂いたら、そうして神様の御用に使うて頂いておるというような事、何か分からんけれども感動して、もうどうにもじっとしておられんごたる感動が湧いて来た。それで、実はまたお参りして来たと、こう言うのです。私は生き生きした心とはそういう心だと。このありがたい心が、明日になったら消えてしまう、冷めてしまう、ね。
「あたくしどもはありがたい」とそういう心の状態の時には、もう自分の家のお神様の前にでもよいから、そのありがたいその心を、神様へ向けさしてもらう。そのありがたい心で、日頃お礼の足りない事やら、お詫びの足りない事やら、またはお願いをさして頂く事であろう。
お願いをさして頂けば、あたくしは神様へ通うと。ね、それが天地に通う。ちょうど原さんがお礼参拝をして見えた後にでした。始め、石川さんたちが、夫婦でお礼参拝しておりました。それは、ちょうどもう一月にもなりましょうか、奥さんが具合が悪くて、病気で入院してあった。おかげ頂いて退院のおかげを頂いたが、その入院中の事である。
⑩●奥さんがもう、これはまああんまり生まれつきと言うでしょうか、もうそれこそ女で、女のくせにね、大変な大きないびきをかかれる。で、もうほんとに若い時から悩ませ続けられて来たと、これに。で、もう最近の合楽ではもう皆あんな奇跡的なおかげを頂いておるわけでして、これはいっちょお願いしようと思うて、その事をわざわざお取次ぎを頂いて願われた。
そしたら、あの病院の方から電話がかかって来た。40度から熱発しておると言うのです。そんで、昨日ちょうど合楽にお願いをさせて頂いたのが、何日の何時だったが、何日の何時頃からの熱じゃないかと。医者は原因不明、どっから出よるやら分からんて言う。んで、こうやってお取次ぎを頂いた時間を見たら、ちょうどその時間から熱発しておる。
「そんなら心配するな。親先生がその時にね、お願いをして変わった事が起こってきたら、ありがたいと心得た信心せえと言われるけんの」と言わっしゃった。だから、もうその時間から変わった事が起こっておって、で、それはもうおかげになるぞと言うて、まあ電話を切ったと言うんです。2日間続いた。
おかげで、3日目からね、そのー、いびきを全然かかれんようになった。そして今日までおかげを頂いておって、おかげを頂いておる事を、改めて思わせて頂いておって、「お父さん。こげなおかげもあたしは病院で頂いたよ」と言いもて、昨日またわざわざお礼参拝して来たんです。
同室に、日田の方という事だけは分かっておるけれども、その方がもうその自分に負けず劣らずのごたる大きないびきじゃったそうです。隣の方が。そこでほんとに自分もあんなふうに言うなら周囲のものを、に迷惑をかけておるだろうと、芯からあのベッドの上で思うた。それで、その自分のこともお願いしてくれたというその合楽の金光様に一生懸命その方の事をお願いした。
そしたらその方が明くる日からっさい、いびきかかっしゃらんごとなったげなよ。それを一月後に、昨日思い出してですね、その日田の人の、日田のどこじゃったか分からんけれどもね、その方のために今日はお礼参拝せににゃおられんと言うて、お父さんを誘うて、昨日お参りをして来ておるというところで、ちょうど原さんが参り合わせたのです、ね。
あたくしはその生きた心という事、ね。神がもの言うて聞かしてもです、先生あげん言いなさったばってん。で、ではなくてね。例えば熱発をした、お願いをして熱発をした、変わった事が起こってきた。それはおかげぞと思える生き生きとした心なんです。そういうおかげの受け止め方です、ね。●⑩
だからこちらの心が生きておらなければだめ。昨日、これも、これは午前中の奉仕の時でしたけれども、久留米の井上さんがお礼参拝毎日しておられます。お姉さんの方。それで今日、あのー、四国の妹から手紙が参りました。あの、すぐ合楽にお礼参拝してくれと言うてお初穂送って来とるわけです。
それがもう大変おかげを頂き、この頃から、えー、お母さんのー、50日祭でみえとる時にお願いされたことがです。ちょうど娘さんが、今年成人式の娘さんがおられる。ほんで、えー、まあー、訪問着ですか、それを作ってやろうと思うたけども高いし、本人ももう洋服でええと言うし、でそのー、グズグズしておる内に、もうとうとう作ってやらんですんだ。
けども、どうせいるのだから作らせて頂こうと、あの言うたところが、もうあんたもう青年あれでどこの呉服屋店も、もうよかどんなくなってしまった、と申しますが買わせて頂いたらよいだろうか、あー、まあこのまま見合わせとったらいいでしょうかと言うお届けがあった。その時にあたくしがね、「どうせいるのなら買わせて頂きなさい。残りに福ありという事もあるからね。お願いをしとくから買わせて頂きなさい」と言うておったんです。
ところが、3件回られたけども3件とももうよか柄がなかった。けれどもその時に思い出したのが、親先生が残りに福ありと言うたけんまあ1ぺん行ってみろうと思うて行った所に、もう飛びつくごたるよかつがあったわけ。娘も気に入りよるじゃけん。ところが値段が高い。ところが向こうがね、ちっと値段が高すぎると言うたら10万円負けらっしゃった。
もうまたもう言うならば来年のその成年式ぐらいにしかもう売れんのだから、もう1年でせんならんから買うて下さいと。そげーん負けちもらたっちゃ気の毒か。さあどうするかちゅってから言いよったら、買いなさらんとも言わん。それにピッタリ、帯を1本持って来て、「これもサービスしとくけん買うときなさい」とじゃった。
とにかく10万円も安買うた上、そのそれにピッタリ合う帯まで頂いて、ほんとに親先生の仰る事はほんなこつばいと手紙に書いてあった。ね、だからそのお礼参拝をしてくれと言うのでございました。ね、神様が、言うならばただ、どうぞ着物を買いますよろしくお願いしますと言うただけではなくてです。それに神様がもの言うて聞かして下さってある。返事を言うて下さってある。
あの残りに福ありというあの言葉がなかったならば、もう3件目で止めとっただろう。けれどももう1ぺんと言うたところに、まあ娘も気に入りゃあ、まあ自分も気に入る。値段がちょっと高いけれどもというふうだったけれども、あの思いもかけない10万円も負けてもらった。
それでもまあその向こう、お店としてはグズグズしておると見えたのでしょう。裏にその隠しておったげな帯を持って来ました。言うなら、この帯を1本サービスしとくから買うときなさいと、まあ言われて娘も喜び、私もほんとにおかげを頂いてありがたかったと言うのですね。
お取次ぎを頂く。神様のご返事が頂かれる。いかに神様のご返事でありましても、頂く方の心にです、お願いしとったら熱が出たていうような天地の頂き方をする。その時にですね、変わった事が起こってきたらおかげと心得てと言う生きた神様のお言葉があったおかげでですね、それをお取次ぎを頂いた時間と合致した。
それはおかげぞと言えた。が、おかげになっておる。何十年間悩みつづけたいびきがかかんようになっただけではない。もう一月経ちますけれども、今日おかげを頂いておるという事実からです。ほんとにおかげを頂いてありがたかったが、実はその時にです、隣のいわゆるそのベッドの、におられる日田の方というだけしか分かっておらんけれども、その方の事を、ほんとに自分もあげん人に迷惑をかけておると思うたら、その人の事が祈らなければおられなかったと言う。
その方も明くる日からいびきをかかんごとならっしゃった。あげな不思議なおかげをお父さん頂いとったつを、一月後に思い出した。で、昨日の言わばお礼参拝となったわけですね。金光様のご信心は、言うならば生きた信心です。天地は昔から死んだ事がない。生き通しの天地を教祖金光大神が拝まれる。天地金乃神と一心である。
そんならその金光大神を通して、あたくしどもの一心が天地に通わなければいけない。通うという事は、あたくしどもの心の中の生き生きした心。もうそれをまあー、1番わかりやすく言うならば、原さんが昨日ね、昔のご信者に会われて話をされて、感動が続いて、その感動がね、冷めない内にまた合楽にお礼参拝して来ておる、そういう心、ね。
生きたみ教えを生きた心で受け止めてね。そこに言わば生きた働きというものが生まれて来る。昨日は久留米の松影会、久留米関係、矢部関係の総代さん、幹部の方達の信心研修会が久留米教会でありました。昨日、もうー、下がってお風呂に入っておりましたら、あー、文男さんが帰って来ました。皆、皆帰って来た。
そうやって風呂の中に入って来てからのその、「今日はこげな事でした」と言うて、まあ色々まあ話をさせて頂いておったんですけれども、もうほんとに( ? )もうえらいこう、あのー、うーんしゃべりまくりよったとばってん。それがたまたまその人の長男が、高橋さんところの宮崎の方の寿司ば食事に来ておる。高橋さんが、「お宅の息子さんでしょう?あの私のお店におい出て頂いておるですよ」というような話をさせて頂いたら、もう一ぺんにプスーッと話を止めてしもてから、えらいその-、まあ謙虚にならっしゃったと言う話をしておりました、ね。
もうほんとにただしゃべりまくっておるという事では、帰って嫌な感じがするね。それに引き換え、例えば久保山さんが少し体験を話されたら、もう皆が感動するほどおかげを頂いたと、こういう話もしておりました。生きた話。やはり生きたおかげを頂かなければ、生きた話は出来ませんね。どういうような事を中心に話したかというと、3つのテーマがあったと言いよったけど忘れましたけど。
生き生きとした教会作りと言う事だったそうです。私は文男さんに風呂の中で申しました。「合楽でおかげを頂いておる事を話したら、その3つが全部その答えになるね」って言うて話したことでした、ね。⑦●例えば、どんなに生き生きとした、言うならば教会作り。ためには信者がこげんせなんあげんせなん生き生きと。と、もうする事だけを教えるから、それをしようけれども、おかげも何にもそれに繋がらないならば、言わば生きた働きが長く続くはずがない、ね。
教会内に生きた、言わば生き生きとした教会作りを目指すならば、まず生き生きとした、私は信心を頂かなければならない。その為には、自分の心が例えば修行でもさせて頂いて、心が生き生きと弾んで来る。その生き生きとした弾んだ心でです、生きた御理解に触れなければいけない、ね。
その生きた御理解を頂くからです、御用をしなければおられないと言う、例えば合楽で言うなら皆さんがおかげを受けておられるような、言うならば御用も誰がせにゃならん、どうという事もないけれども、でけておるようなものであります。ただ信者が生き生きとした御用せにゃん、生き生きとした御用せにゃん、誰がどげんしござる、こげんしござると言う事を聞いてです。
ほうそれはそれはおかげを頂かれるかもしれんと思うて、生き生きと御用させて頂いても、おかげ頂かんならまた元の木阿弥。生きた話を聞いて、生きた御用をして、生きたおかげを頂くから、またいよいよ生きた御用が出来る。そこに生き生きとした教会作りが出来るのです。●⑦今日は、昨日お取次ぎさして頂いたり、聞かせて頂いたお話の中から、いかに神様がですね、もの言うて下さる、ご返事を下さっても、こちらの心に生きたものがなかったら、それをおかげにして行く事は出来ません、ね。
そこでその生きた心と言うものがですね、本気で修行さしてもらう、本気で改まらしてもらう、本気で磨く事に精進さして頂くというような信心からでないと、生きたものは生まれてまいりません。ほんとに今日1日のご理解がです、今日1日私を支えてくれた、助けてくれたというようなおかげを頂くためには、まずはです、今日の御理解をいかに生きた心で頂くかという事になるのです。どうぞ。